ゆうこのゆるゆる通信

おとぼけ天然キャラ(*^_^*)箏奏者・福田優子の周りで起こる、日々諸々のこと

2017年08月

沢井一恵リサイタル Kazue Sawai plays Yoichi Sugiyama(3/3)

ご無沙汰しております。
沢井箏曲院の試験があったり子供コンサートがあったりして慌しくしておりましたら体調を崩し、すっかり更新が止まっておりました(歳ですね)。
おかげで随分時間が経ってしまい今更な感じですが、予告どおり一恵先生のリサイタルについて…

箏の演奏会と言えば、一曲ごとに演奏者が引っ込み、楽器を入れ替えて次の曲を演奏、と言うスタイルが一般的です。
しかし、今回のリサイタルでは曲ごとの転換を排した演出でした。
予めステージ上に三曲分の楽器を全て並べ、開演と共に一度会場は暗くなります。
暗闇の中、真っ白な衣装を着た一恵先生が現れ、楽器の前に座るとスポットライトが点灯。
曲が終われば暗転、隣の楽器へ移動しスポットライトが点いたら演奏。
曲間の拍手がないので緊張感が継続し、1ステージが一つのまとまった空間になりました。
特に前半は、五絃琴や七絃琴の小さな音に耳を澄ます繊細な空気が分断さなかったので、とても良かったです。

今回使われた五絃琴と七絃琴は、いずれも正倉院に伝わった物を国立劇場が30年ほど前に復元したものです。
その特徴は、何と言っても音量が非常に小さいと言う事です。
休憩中に一恵先生が「ステージに上がって楽器を見て下さい」と仰って下さり、かなり大勢のお客様が間近で観察しました。
七絃琴は儒教の楽器として現在も一応伝わっていますが、五絃琴は珍しいので写真を撮りました。
最古の五絃琴はBC5世紀の曽公乙墓から発掘され、BC2世紀前漢時代の馬王堆古墳から出土した棺の蓋にも五絃琴の絵が彫られているそうです。
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下のわずかに膨らんでいる部分が共鳴胴です。
驚くほど小さく、一見して鳴らないことが予想されます。
恐らくは人に聞かせるのではなく、神に捧げたり自分のために弾く楽器だったのではないかとの事でした。
後で調べたら、編鐘の調律に使ったのではないかと言う説もあるようです。

楽しみ消費するための音楽に慣れ、着信音や発車メロディなどの環境音に四六時中晒されている私にとって、聞こえるか聞こえないかの音に一心に耳を澄ますと言う行為は、新鮮で心地良かったです。そしてとても尊いものに感じました。
音楽は多様であると言うことも思い出しました。

「現代邦楽」と言うジャンルが出来て60年程。一恵先生の今回のリサイタルは一つの到達点だったと思います。
元々「現代邦楽」は演奏家から見れば西洋音楽(特に現代音楽)を取り込むこと、作曲家から見れば非西洋の手法を試みることでした。
しかし今回は、両者ともひたすら音楽の方だけを向いてごく自然に自分の持っているものを使った感じがし、西洋・東洋など、元の出自を問うのはあまり意味がない次元での演奏会だったと思います。
終演後、
「とうとうここまで来たか」
と言う思いを感じました。
今の日本の音楽の成果として海外でもこの公演をやったら、とても意義があるのではないかと思いました。

それにしても一恵先生は一体どこまで進化するのでしょうか。
どこまでも付いていって、先生の進化を見ていきたいです。

沢井一恵リサイタル Kazue Sawai plays Yoichi Sugiyama(2/3)

前回の投稿に引き続き、一恵先生リサイタルのレポートです。

休憩を挟んで後半は
・復元七絃琴と録音された復元五絃琴のための「峠(たむけ)」
・十七絃箏とエレクトロニクスのための「盃(さかつき)」
の二曲でした。

"復元七絃琴と録音された復元五絃琴のための「峠」"は、録音をされた「手弱女」を流し、同時に一恵先生先生が「真澄鏡」を演奏すると言う趣向でした。
前半と同じようにステージ下手から五絃琴、十七弦、七絃琴と並べ、先生は七絃琴を弾きます。
先生だけでなく、五絃琴にも薄っすらとスポットライトが当たります。

この音響のセッティングをしたのは有馬純寿さんだと思いますが、とても絶妙で、会場のスピーカーから音が出ているはずなのに、まるで五絃琴本体が音を発しているように聞こえました。
そのため、この世のものではない感じがし、イザナギがイザナミを慕って黄泉の国へ行くエピソードが思い浮かびました。
何年か前に見た渋谷慶一郎さんの「THE END」で、どことなく生々しい初音ミクに「私は死ぬの?」と問いかけられた時に、ものすごくゾワっとしたのですが、五絃琴がひとりでに発する「手弱女」にも似たような感じを受けました。機械を通すと、この世のものでない感じが生まれるのでしょうか?

本当はこの曲は中臣宅守(なかとみのやかもり)の

「畏しこみと 告らずありしをみ越路の 峠にたちて 妹が名告りつ」

がモチーフになっています。
万葉の人々は峠を越える際に相手の名前を声に出すとその人が祟られると考えていたようです。
淡々とひとりでに鳴る「手弱女」に、「真澄鏡」がいくら必死に呼びかけても応えない。
生きている男女の話ですが、絶対に遭えない、通じ合えない断絶感を感じました。

余談ですが、実際の狭野茅上娘子(さのちがみのおとめ)は「手弱女」とはとても言いがたい、情熱的で激しい気性の女性だったと思います。万葉集には中臣宅守と狭野茅上娘子が交わした相聞歌が六十三首残っていますが、狭野茅上娘子の歌は恋い焦がれる激情や不安感がほとばしる感じです。

プログラムの最後、"十七絃箏とエレクトロニクスのための「盃」"
こちらは唐の詩人、李白の詩を題材にしたものです。
5月に白河スーパー薪能で初演された時は野外で行われ、本当に素晴らしいものでした。
今回は短縮バージョンとの事でしたが、実際に聞いてみると、せっかくだからフルバージョンでやって欲しかったと思いました。
時間の制約のせいか、有馬さんの即興が控え目でサクサク行ってしまった気がします。
短縮バージョンと言っても30分のところを20分ですから、決して短いわけではありませんが、有馬さんの即興は本当に良くて、初演の時は一恵先生との絡みを堪能しただけに少し残念でした。
もうちょっと長く楽しみたかったなぁ。
次回再演するときは是非フルバージョンで聴きたいです。

初演とは正反対の、屋内、しかも小ホールという条件でしたが、会場の小ささはあまり気になりませんでした。
そして、やっぱり凄い曲でした。
とにかく仕組みが凄いです。
李白の詩、一字毎に旋律を当てていて、一恵先生は任意の文字に飛びながら曲が進みます。
有馬さんはマイクから拾った音素材をリアルタイムで加工したり、ストックして別のところで加工して流したりします。
一恵先生はそれを聞いて次に飛ぶ文字(旋律)や飛ぶタイミングを決めていたと思います。
きちんと理解はできませんが、詩を一字毎に解体する、任意に飛ぶと言う形式そのものに、音楽的意味が付加されているのではないかと思います。

後半二曲は圧巻でした。

西洋音楽の作曲家の作品は、聞いて楽しく喜びを感じることが多いです。
曲の構造から作り込んでいて、その作品に思想・哲学・これまでの思索が全て盛り込まれ、密度の濃い、充実感を感じられる作品が多いからです(邦楽出身の作曲家の作品は残念ながらここが弱いと思います)。
杉山さんの作品も、楽器の選択、編成、構成、構造、すべて考え尽くされていて、聞いていて深い満足感を感じました。

と言う事で一先ず今回は後半の感想。
次回はその他に感じた事を書きたいと思います。
しかし、まとめられる気が全くしない。
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