ご無沙汰しております。
沢井箏曲院の試験があったり子供コンサートがあったりして慌しくしておりましたら体調を崩し、すっかり更新が止まっておりました(歳ですね)。
おかげで随分時間が経ってしまい今更な感じですが、予告どおり一恵先生のリサイタルについて…
箏の演奏会と言えば、一曲ごとに演奏者が引っ込み、楽器を入れ替えて次の曲を演奏、と言うスタイルが一般的です。
しかし、今回のリサイタルでは曲ごとの転換を排した演出でした。
予めステージ上に三曲分の楽器を全て並べ、開演と共に一度会場は暗くなります。
暗闇の中、真っ白な衣装を着た一恵先生が現れ、楽器の前に座るとスポットライトが点灯。
曲が終われば暗転、隣の楽器へ移動しスポットライトが点いたら演奏。
曲間の拍手がないので緊張感が継続し、1ステージが一つのまとまった空間になりました。
特に前半は、五絃琴や七絃琴の小さな音に耳を澄ます繊細な空気が分断さなかったので、とても良かったです。
今回使われた五絃琴と七絃琴は、いずれも正倉院に伝わった物を国立劇場が30年ほど前に復元したものです。
その特徴は、何と言っても音量が非常に小さいと言う事です。
休憩中に一恵先生が「ステージに上がって楽器を見て下さい」と仰って下さり、かなり大勢のお客様が間近で観察しました。
七絃琴は儒教の楽器として現在も一応伝わっていますが、五絃琴は珍しいので写真を撮りました。
最古の五絃琴はBC5世紀の曽公乙墓から発掘され、BC2世紀前漢時代の馬王堆古墳から出土した棺の蓋にも五絃琴の絵が彫られているそうです。
下のわずかに膨らんでいる部分が共鳴胴です。
驚くほど小さく、一見して鳴らないことが予想されます。
恐らくは人に聞かせるのではなく、神に捧げたり自分のために弾く楽器だったのではないかとの事でした。
後で調べたら、編鐘の調律に使ったのではないかと言う説もあるようです。
楽しみ消費するための音楽に慣れ、着信音や発車メロディなどの環境音に四六時中晒されている私にとって、聞こえるか聞こえないかの音に一心に耳を澄ますと言う行為は、新鮮で心地良かったです。そしてとても尊いものに感じました。
音楽は多様であると言うことも思い出しました。
「現代邦楽」と言うジャンルが出来て60年程。一恵先生の今回のリサイタルは一つの到達点だったと思います。
元々「現代邦楽」は演奏家から見れば西洋音楽(特に現代音楽)を取り込むこと、作曲家から見れば非西洋の手法を試みることでした。
しかし今回は、両者ともひたすら音楽の方だけを向いてごく自然に自分の持っているものを使った感じがし、西洋・東洋など、元の出自を問うのはあまり意味がない次元での演奏会だったと思います。
終演後、
「とうとうここまで来たか」
と言う思いを感じました。
今の日本の音楽の成果として海外でもこの公演をやったら、とても意義があるのではないかと思いました。
それにしても一恵先生は一体どこまで進化するのでしょうか。
どこまでも付いていって、先生の進化を見ていきたいです。
沢井箏曲院の試験があったり子供コンサートがあったりして慌しくしておりましたら体調を崩し、すっかり更新が止まっておりました(歳ですね)。
おかげで随分時間が経ってしまい今更な感じですが、予告どおり一恵先生のリサイタルについて…
箏の演奏会と言えば、一曲ごとに演奏者が引っ込み、楽器を入れ替えて次の曲を演奏、と言うスタイルが一般的です。
しかし、今回のリサイタルでは曲ごとの転換を排した演出でした。
予めステージ上に三曲分の楽器を全て並べ、開演と共に一度会場は暗くなります。
暗闇の中、真っ白な衣装を着た一恵先生が現れ、楽器の前に座るとスポットライトが点灯。
曲が終われば暗転、隣の楽器へ移動しスポットライトが点いたら演奏。
曲間の拍手がないので緊張感が継続し、1ステージが一つのまとまった空間になりました。
特に前半は、五絃琴や七絃琴の小さな音に耳を澄ます繊細な空気が分断さなかったので、とても良かったです。
今回使われた五絃琴と七絃琴は、いずれも正倉院に伝わった物を国立劇場が30年ほど前に復元したものです。
その特徴は、何と言っても音量が非常に小さいと言う事です。
休憩中に一恵先生が「ステージに上がって楽器を見て下さい」と仰って下さり、かなり大勢のお客様が間近で観察しました。
七絃琴は儒教の楽器として現在も一応伝わっていますが、五絃琴は珍しいので写真を撮りました。
最古の五絃琴はBC5世紀の曽公乙墓から発掘され、BC2世紀前漢時代の馬王堆古墳から出土した棺の蓋にも五絃琴の絵が彫られているそうです。
下のわずかに膨らんでいる部分が共鳴胴です。
驚くほど小さく、一見して鳴らないことが予想されます。
恐らくは人に聞かせるのではなく、神に捧げたり自分のために弾く楽器だったのではないかとの事でした。
後で調べたら、編鐘の調律に使ったのではないかと言う説もあるようです。
楽しみ消費するための音楽に慣れ、着信音や発車メロディなどの環境音に四六時中晒されている私にとって、聞こえるか聞こえないかの音に一心に耳を澄ますと言う行為は、新鮮で心地良かったです。そしてとても尊いものに感じました。
音楽は多様であると言うことも思い出しました。
「現代邦楽」と言うジャンルが出来て60年程。一恵先生の今回のリサイタルは一つの到達点だったと思います。
元々「現代邦楽」は演奏家から見れば西洋音楽(特に現代音楽)を取り込むこと、作曲家から見れば非西洋の手法を試みることでした。
しかし今回は、両者ともひたすら音楽の方だけを向いてごく自然に自分の持っているものを使った感じがし、西洋・東洋など、元の出自を問うのはあまり意味がない次元での演奏会だったと思います。
終演後、
「とうとうここまで来たか」
と言う思いを感じました。
今の日本の音楽の成果として海外でもこの公演をやったら、とても意義があるのではないかと思いました。
それにしても一恵先生は一体どこまで進化するのでしょうか。
どこまでも付いていって、先生の進化を見ていきたいです。